「柴山が卒業式に来てないぞ!」
2007年10月23日
年が明け、公認会計士試験の受験を目指すことになりましたが、問題が一つありました。
内定を頂いた会社にはどう言って了承してもらうか、これが頭痛の種でした。
子供の約束ではないのだから、いったん“Yes”といったものを後でくつがえすには、
それ相応に相手を納得させる理由が必要です。
たとえば、内定が決まったあと親が倒れてしまい、急遽実家に帰ってその後を
継がなければならなくなったとか、不治の病に倒れてしまったとか、
よほどの事情がなければ通りません。
そこでとった手段が、「大学を卒業できなかった」という理由付けです。
以前に、卒業単位が足りないため留年し、内定後入社ができなかった人がいたらしく、
それは不可抗力として取り扱われていたことを聞いていました。
その前例を活用(?)させてもらおうと考えたのです。
もちろんこれで全てが丸く収まるわけではないのかも知れません。
ただこの時点では、「柴山はばかな奴だなあ」ぐらいに思われることは全然苦になりませんでしたし、
これでいままで私の就職活動をめぐって苦労していただいた方へのせめてもの決意の表明ができれば、
と思い、あえて2科目分の単位不足という形で留年しました。
卒業式を目前に控えた2月、3月の頃は、全く大学へは行かず、
もっぱら秋葉原の支店で(専門学校の授業料+翌年分の大学の学費)稼ぎで忙殺され、
実は大学の同級生には全然留年のことを伝えていませんでした。
そんなこんなで、あっというまに卒業式の日がやってきました。
その日もやはり、私は副支店長として秋葉原で販売に精を出していたので、
すっかりそのことを忘れていたのです(もちろん、その時の私には全く関係のないこととなっていましたが…)
その夜、午後11時過ぎに家に帰ってみると、留守番電話に同級の友人からメッセージが入っていました。
「おーい、柴山!どうしたんだあ。卒業式にお前の姿がないんで、みんなびっくりしていたんだぞ。
これ聞いたら、電話をくれ。」
私は、今日が卒業式であり、そういえばアルバイトにかまけて大学の人間には
全く事情を話していなかったことをようやく思い出し、あわてて彼の所に電話を入れました。
「もしもし、柴山か?お前、一体どうしたんだよ。『柴山が卒業式に来てないぞ!
行方不明にでもなったのか?』ってみんなで心配してたんだぞ。訳を教えてくれよ。」
「ごめん。実は俺、留年したんだ。」
「りゅうねんだって?」
その後、私はかいつまんで単位をわざと落とした経緯を友人に話しました。
「そうか、なるほどねえ。しかしまた、ずいぶんと思い切ったことをしたもんだな。
公認会計士って、すごく難しいんだろう。」
「合格率は6%ぐらいかな。」
「ろくぱーせんとお?それじゃあ、受かること事態が奇跡じゃん。
だいたい、お前が在学中に勉強しているところなんか、全くみたことないぞ。」
「ああ、たしかに。でもまあ、2~3年も頑張れば、何とかなるかなあ、なんて思ってたりして…」
「呆れた奴だな。せっかくいい会社に就職決まってたのに。まあいいや。もし万が一受かったら、
盛大に合格祝いやってやるよ。頑張れよな。しかし、これは凄いニュースだよ。
他の奴らがこのことを知ったらビックリするだろうな。」
というより、あきれるだろうなあ、とは私自身も思いました。
電話を切った後、彼が言った言葉を思い返してみました。
「万が一受かったら…」
どうやら、彼は私が合格するとは本気で考えていないみたいです。
ますます闘志がわいてきました。
「本当に合格して、興味半分で俺の受験を見ていた奴らをビックリさせてやる…」
さしたる根拠はなかったのですが、不思議と、この勝負に負ける気がしませんでした。
専門学校の受講料を稼げ!
2007年10月22日
そうこうしている間に、気がついたらもう年末でした。
私は、忘年会にかこつけて、再び池袋の社長の元へ訪れました。
その日は、あまり好きではない酒をじゃんじゃん飲んでしまい、
あっという間に終電の時間を過ぎていました。
そこで、近くの社長の家にご厄介になることとなったのです。
「すみません。奥さんにごめいわくじゃないですか?」
「いいのいいの。今晩は実家に帰っていて、気楽な独身貴族だから。」
社長の住むマンションに着いたのは午前2時ごろでした。
「そういえば柴ちゃん、卒業後の進路はどうなったの?」
「ええ、あのあと会社の内定式に出席して、同期の人間たちと接しているうちに、
現実問題として仕事と会計士受験を両立するのは、よほどの天才でもなければ無理だな、
と実感しました。特に新人時代は独身寮に全員はいりますので、会社から帰っても、
勉強のための時間とエネルギーを確保するのは難しそうです。」
「つまり、どっちか一つに決めた、ということだね。」
「はい。」
短い沈黙の時間が流れました。
わたしは、差し出されたウーロン茶を一口飲み、ゆっくりと言葉を続けました。
「やっぱり、いずれは自分の城を持ちたい、という気持ちは変わりません。
内定をもらうまでの経緯で、いろいろな方に尽力してもらったり、
また、ご迷惑をかけた人がいたため、申し訳ないという気持ちから2番目の選択肢に
一時は傾いていましたが、同じ後悔するなら、やらずに後悔するより、
『やって後悔する』道を選びます。会社の方々には申し訳ないですが、
内定を辞退して、公認会計士試験に挑戦することに決めました。」
それまで私の話をじっと聞いていた社長が、意外にもぱっと明るい顔になりました。
「それはよかった。俺もその方がいいと思うよ。」
「え?てっきり社長には怒られると思ったんですけど…」
「まさか!俺が後ろ向きの選択を薦めるわけないだろう。たしかに、今度の柴ちゃんの決断によって、
迷惑をかける人がでてくる。その人達に対しての心遣いは当然必要だとしても、
やっぱりやりたいことをやらなくちゃ!『人は思う人になれる』だろ?信念だよ!」
この言葉で、私の気持ちが吹っ切れました。
「ところでさ。受験を決意した柴ちゃんにちょうどいい話があるんだけど、乗ってみない?」
「どういうことですか。」
「実はね、今現在、当社は池袋に本店が1つあるでしょう。
それで、春休みを睨んで、支店を秋葉原、渋谷、そして立川の3ヵ所に出そうと思うんだ。
そこで、柴ちゃんには、秋葉原支店に副支店長として2ヵ月ほど働いてほしいんだ。
1日平均10人~15人前後のアルバイト販売員を動かして、目標の売上げは、
2ヵ月約50日稼動で2,000万円以上だ。もちろん柴ちゃんには固定+歩合で支払うから、
目標をクリアできたら、専門学校の授業料には十分お釣がくる収入になるはずだよ。」
「僕に管理者になれ、ということですか?」
「そう。学生時代に人の上に立っておくことは、社会経験としても貴重な財産になると思うけど。
どう?やってみる気はないかな。」
たしかに、大型国家資格を取得するためには、専門学校の授業料は
年間で50万円くらい必要になるので、それをどう親に相談するかは悩みの種の一つでした。
また、どんなかたちであれ、人の上に立って仕事をしてみたい、
という希望は普段から自分の中にありましたので、私はその場で社長の申し出を引き受けたのでした。
その日は、私の人生にとって、大きな意味のある1日になりました。
会社の内定式に出席して
2007年10月21日
思えば数ヶ月前の春、あまり深い考えもなしに公認会計士を目指そうと決め、
卒業後の数年は仕事と受験を両天秤にかけて、などという都合のよい将来設計に基づき、
あれよあれよという間に就職先が決まりました。
「親や親戚も喜んでいることだし、やっぱり就職かな…」
この頃は、8:2の割合で入社に傾いていました。
ところが、そんな私の心を変える出来事があったのです。
内定が決まってから数ヵ月後、入社予定者約300名を集めた内定式がありました。
その時、同じ埼玉大学の仲間と初めて顔をあわせました。どうやらその年の採用枠は、
私を含めて2名だったようです。
後で知ったことですが、やはり、大学別にある程度の色分けはあったらしく、
東大、一橋大、そして早稲田・慶応に他の六大学の出身者は十人あるいは二十人以上の
同期生がいたみたいですね。
会場には、大学別の人だかりがあちこちにできました。
私と彼は、二人で会場の隅っこに陣取っていた(?)のです。
「柴山君、埼玉大学出身者で一番出世している人は、どのポストにいると思う?」
「さあ。」
そのあと、なにやらややこしい役職名を並べていましたが、よく覚えていません。
ただ、結論として、役員になれる可能性が皆無に近いということだけは分かりました。
「なんだ、どうやったって、一番にはなれないのか…」
そのときの私の感想です。
さらにその後、こんなことがありました。
30人前後のグループに分かれて、互いに自己紹介や意見交換をしたり、
先輩から入社後の心構えについての話を聞いたりなど、ディスカッションをする場が設けられました。
その中の一環として、社長の挨拶があったのです。
その時行われた、進行係の方の紹介は、次のような趣旨の内容でした。
「えー、それでは皆さん。これから我が社の社長にご登場いただき、
ありがたいお言葉を頂戴いたします。もしかしたら、皆さんの中には、
社長を間近に見られる一生に一度の機会かもしれません。心して拝聴するように。」
もしかしたら受け狙いのジョークのつもりだったのかもしれません。
しかし、とてもそれが冗談には取れないようなその場の雰囲気でした。
その時、なにかとても重たいものが頭の上にのしかかってくるような、そんな息苦しさを覚えました。
もしこのまま入社したら、組織の中に埋没してしまい、
初期の公認会計士受験という目標を見失ってしまいそうな、
そんな不安が急に心の中を支配し始めたのです。
そんな不安感は、1日が終わり、自宅に帰ってからもずっと、消えることはありませんでした。
仕事と受験勉強は両立するか?
2007年10月20日
夏休みも終わりに近づいた頃、久しぶりに前のアルバイト先の事務所を訪問しました。
とりあえず就職も決まったので、すっかり気分はリラックスしていました。
その会社は、池袋の東口にありました。
業種は、大手教材メーカーの通信教育機器を各家庭に伺って販売する、いわゆる「訪問販売業」でした。
商品自体は平均的な学力を持つ子供向けに作られた、良心的なものだったのですが、
いかんせん外回りの営業です。
なかなか初対面では各家庭のお母さん方も警戒して話を聞いてくれません。
この商売、1に笑顔、2に愛嬌、3、4がなくて5に度胸、
てな具合で販売員のトータル的な印象度が大きく営業実績に影響します。
さいわい私は、それなりに話を合わせるのが苦手な方ではなかったので、
そこそこ商品を買っていただくことができました。
また、基本的に歩合給制だったので、たくさん売れれば、それだけ収入を得ることが可能でした。
学生の身分ながら、売れ行きのよいときには1ヶ月で30万円以上の収入を得ることも夢ではなかったのです。
そこの社長さんは、私より10歳近く上の方だったのですが、なにせバイタリティが凄く、
ずいぶんと刺激を受けました。また、仕事や日常生活の面でも色々と相談に乗ってもらったこともあり、
当時、私にとっての人生の師とも言える存在でした。
当時社長さんから教わり、今でも一番心に残っている言葉があります。
「人は思う人になれる。」
私は、その後の生活で様々な壁にぶつかった時、必ずこの言葉を思い出しました。
そしてこれからも、私の座右の銘であることに変わりはありません。
「やあ柴ちゃん。お久しぶりっこ!」
あいかわらずです。
「ご無沙汰してます。実は先日、内定が決まりました。そのご報告がてら、よってみたんですけど…」
「そう。おめでとさん。ところで柴ちゃんさ、前に言ってた公認会計士の受験はどうするの?」
「それなんですが、まずは仕事をしながら1日2~3時間ぐらい勉強して様子を見、
日商1級を取るぐらいまでに本格的な受験生活に入るかどうか決めようかと思っています。」
「あっそう。そういうやり方もあるんだろうけど…」
「仕事との両立はやっぱり難しいでしょうか?」
社長はすこし考え込むような仕草を見せました。
「そうねえ。やってやれないことはないんだろうけど…
でも、保険会社も普段はずいぶん忙しいって聞くし、酒の付き合いもあるだろうし。
柴ちゃん、酒は全然ダメだったよね。」
「ええ。」
「まあ。優良企業に就職が決まったんだから、そのままずっとお世話になるのなら
それでもいいんじゃない?」
「そうですね。そういう選択も残しておけますもんね。だから、受験勉強とのバランスをとりつつ、
将来のことを考えてみます。」
「でも、柴ちゃんにそんな器用なことは無理だと思うな。」
「え?どういうことですか?」
「ここでの仕事のやり方を見ていると、柴ちゃんは一つのことに入り込むタイプだから、
会社の仕事にいったんはいったら、そっちの方に傾斜する可能性がとても高いってこと。
つまり、両立は現実問題としてよほどの覚悟が必要になるけど、難しいってことさね。」
社長の言うとおりでした。
あと半年も経てば卒業です。公認会計士試験を目指すには、
本来、生活の大部分をそちらに優先させるべきなのに、私は逃げ道を用意している。
社長の言葉の端々から、そんなニュアンスさえ伝わってきました。
「やはり、将来的には独立できる資格を取りたいです。だから、もう少し時間をかけて、
ゆっくり考えてみます。」
そう言って、その日は事務所を後にしました。
やはり、仕事をしながら大型資格を取るのは難しいのでしょうか。
しかし、仕事をせずに受験一色の生活を始めるには、合格の保証がないだけに、かなりの勇気がいります。
また、私を推薦してくれたOBの方々への手前もあります。
「しばらくは眠れない日々が続くな…」
まだまだ、前途は多難です。
内定をめぐる悲喜こもごも
2007年10月19日
いよいよ面接です。さすがに緊張が高まり、面接室に行くまでの10分間で、2回もトイレに行ってしまいました。
実際のところ、本番中は、どんなことを聞かれ、どう答えたかはまるで覚えていません。よほどあがっていたのでしょう。面接室から出て先輩の待つ控え室へ、どうやって辿り着いたのかさえ思い出せなかったくらいなのですから。
その後、結果が出るまでしばらく待機するよう命じられ、全く自信のないまま、たて続けにブラックコーヒーを3杯ほど飲み干しました。
30分ほど待ったでしょうか、先輩が無表情で控え室に入ってきました。
その雰囲気に、「落ちたかな」、と半分覚悟を決めました。
ところが、予想に反して合格の旨を伝えられたのです。
「やったあ!」
ここまでいろいろとあったため、喜びもひとしおです。自然と笑みがこぼれてきました。
しかし、そんなわたしのリアクションとは裏腹に、先輩の表情はいまだ固いままです。どうしたんだろう、と少しばかり不安になりました。
「ところで柴山君さ…」
ようやく重い口が開かれました。
「君、他にも内定をもらっている、と前に言っていたよね。」
「ええ。ずいぶん前にいただいた内々定はすでにお断りしていますので、今のところ、証券会社1社のみです。」
「そう。それで、君はこれからどうするつもり?」
先輩の目が、真っ直ぐに私を見据えています。どうやら、私の意思を確かめているようです。この場に及んではじめて、私がこの大企業に就職を決めるということの重大さに、遅まきながら気付きました。
私は、ゆっくり間を取りながら、慎重に言葉を探しました。
すでに、私を推薦するべく数人のOBの方に骨を折ってもらっています。
さらに留意すべきことは、当社のような大企業への埼玉大学からの就職枠は限られています。一度内定が決まってしまえば、生半可な理由でこれを辞退すると、来年以降の採用枠が減るかもしれません。つまり、私の挙動が先輩・後輩に迷惑をかけてしまうこともありうるのです。
「大変光栄に思っております。」
実は、大変勝手で申し訳なかったのですが、その時にはまだ、正直言って証券会社への未練が多少あったため、2~3日ほど考える時間がほしいな、と思っていました。
それが、このようなあいまいな答えに現れてしまったのです。
「まあ、君にも色々事情があるだろうから、もちろん強制はしない。だが、僕たちにも採用の都合があるから、できればこの場で最終決定をして欲しい。どうだろう。同じ大学の出身者なんだから、変に気を使ったりせず、正直なところを聞かせてくれないか。」
さすがに社会人です。学生の考えそうなことは、はなからお見通しでした。
ただ、見方を変えれば、それだけ新卒の学生を確保することが、当時の企業にとっては重大な問題だったので、先輩も必死でした。
数分の沈黙が、その場の空気をより一層重いものにします。
YesかNoか。はっきりさせずにはいられない状況に置かれました。
「わかりました。御社でお世話になります。どうぞ、よろしくお願いいたします。」
声を絞り出すようにして、短く答えました。
はじめて、先輩の顔に笑みがこぼれます。
「そうか。ありがとう!これで俺も上司に対して面目が立つよ。」
私たちは握手を交わしました。
しかし、次の瞬間、またもとの厳しい顔に戻り、たたみ掛けるように言葉を投げかけます。
「それじゃあ、もう一つの証券会社には、断りの電話を入れなければならないな、柴山君。」
「はい、そうですね。それではこのあと、自宅に戻ったら早速先方に連絡します。」
いや、と間髪入れずに先輩が続けました。
「すまないが、今、この場で連絡を入れて欲しい。君を信用していないわけではないんだが、人事担当責任者にも、この件についてはきちんと片付いたことを報告しなければならないんだ。」
その時、はじめて社会の厳しさを垣間見た気がしました。
「承知しました。では、そこの電話機を使わせていただきます。」
証券会社の採用担当直通の電話番号をダイヤルすると、4度ほどベルが鳴って、私の担当の方がちょうど受話器を取りました。
「もしもし。ああ、柴山君?急にまたどうしたの。何か相談事?だとしたら金の話はダメだよ、はっはっは…」
何も知らない担当の方は、無邪気に冗談を飛ばしています。私はとても笑う気にはなれず、つとめて平静を装い、用件を述べました。
「あの、実は…大変申し訳ありませんが、先日頂いた内定を取消させていただけないでしょうか。勝手を言って、本当にすみません。」
「え?ど、ど、どういうこと?他の会社に決まったの?」
受話器の向こうで、ガタッと席を立つ音が大きく響きました。相手の驚きようが手にとるように浮かびます。
「そう。わかった。それじゃあ、今から会いに行くから。ぜひ話をさせてよ。な、頼むから。今どこにいるの?すぐそっちに行くよ!」
「いえ、それがその…」
一瞬の間がありました。その時、担当の方も全てを察したようです。
「ひょっとして、今、会社?」
「はい。あの、本当にすみません!」
私はただ、見えない相手に深々と頭を下げ、謝罪の言葉を繰り返すばかりでした。
「そうか。それじゃあ仕方ないね。本当に残念だけど、君もずいぶん悩んだんだろうから、もうこれ以上は言わないよ。今のご時世じゃあ、そう珍しいことでもないからね。ともかく、君は君なりに、頑張ってくれよ。」
「ご理解いただき、ありがとうございます。すみませんでした。」
受話器を置いた瞬間、思わず涙がこぼれそうになりました。
「ごくろうさま。ありがとう。でも、今は本当に人材を確保するのが大変な時代だから、こういうことは時々起こるんだ。君も、すっきりと気持ちを切り替えて、頑張ってくれよ!」
そういうと、先輩はやや大袈裟に私の背中を2回叩き、励ましてくれました。
こうして、大学4年の夏に、就職活動がひとまず決着したのでした。
「その頭じゃ駄目だ!七・三に分けなさい!」
2007年10月18日
実を言うと、それまでにもう、第3志望である中堅の保険会社1社から内定の約束(内々定という奴です)をもらい、もうひとつ、証券会社から1つ内定を頂いている状態でした。
最後にOB訪問したその会社は業界ベスト3に入る大手で、一歩ビルに入ったとたん、その大きさと綺麗さに圧倒されたのです。
「やあ、君が柴山君か。僕は昭和〇〇年に卒業した××だ。よろしく頼むよ。一緒にこの会社を盛り立てていこう!」
私より15~16歳くらい年上だったでしょうか。気さくな方でした。
「こちらこそ、よろしくお願いします。」
ところが、あいさつが終わるや否や、先輩は僕の頭をまじまじと見るなり、眉をひそめたのです。
「柴山君、その頭、まずいよ。」
「は?どういうことでしょうか。」
「昨夜も電話で話したとおり、これから人事担当責任者の人に面接してもらうんだけど、そんな冴えない浪人生みたいなザンギリ頭じゃあ、相手の心証を悪くするのは目に見えてるよ。しかも、寝ぐせまでついてるじゃないか」
「はあ…すみません。」
先輩は、黙って窓の方へ歩み寄って行きました。
「あそこを見てごらん。」
なんだろう、と思いながらも、窓に近づき、窓の下の同じ方向を見ました。
「床屋さんが見えますね。」
まるで他人事のように呟く私の言葉には答えず、先輩は懐から財布を取り出し、千円札3枚を私の目の前に差し出したのです。
「これで、あそこに行って来るんだ。」
私は、一瞬、彼の言葉の意味が理解できませんでした。というよりは、思いもよらない展開だったのです。
「あの床屋さんへ行って、七・三に分けてもらいなさい。面接までまだ時間がある。今なら空いているだろうからすぐに切ってくれるよ。さあ、行っておいで。」
NOと言う間もなく、私は背を押されたのでした。
何ともいえない憂鬱な気分に包まれました。私は、昔からおでこが広く、髪も猫毛でふわふわしており、横分けにするととても間の抜けた顔になってしまうのです。
できればそれだけは勘弁して欲しいと思ったのですが、ある意味人生がかかっている訳なので、渋々、散髪に行くことにしました。
しかし、きっと、こんなことは前代未聞なのでしょうね。まさか会社訪問先で「散髪してこーい!」などといわれてお金をもらい、床屋さんに行くなんて、誰も想像できませんよね。
まあ、今思うと、出掛けにきちんと身の回りのチェックをしなかった自分が馬鹿だったということなのですが…
そんなこんなで1時間後、見事な七・三分けのダサい男に変身し、私は再び先輩の前に現れました。
「うん、これだよ、これ!これならビジネスマンらしく見えるぞ!なあ、お前もそう思うだろう?」
先輩は、満足そうに、隣にいたもう一人のOBに向かって言いました。
その時、私は、窓ガラスに映る自分の姿を見て、
「これは俺じゃない!どこかの怪しいセールスマンだ!」
と、心の中で叫んでいました。
就職戦線バブル組
2007年10月17日
この頃の世情を反映する面白い映画がありました。「就職戦線異常なし」という、織田裕二さん主演の映画です。
私は、数年後の不況期にこの映画をテレビで見たのですが、非常に懐かしい感じがしたのと同時に、「ありゃあやっぱり異常でしょ?」と考えさせられたのを憶えています。
当時の会社案内のパンフレットは、学生の目を引くために作られたためもあって、どれもこれも将来を約束されたかのような、希望に満ちた内容のオンパレードでした。
たとえば、全室個室で最新冷暖房設備を備えた、どこかの新築マンションかと錯覚するほどの素晴らしい独身寮を作ったとか、三十歳代前半で年収1千万円も夢ではない、などなど、会社案内を呼んでいるだけで、自然と胸が躍ったものです。
実際、ある程度の大学にいる人ならば、それほどしゃかりきに努力しなくても、大抵は内定が取れました。そして、もしも一人の人が複数の内定を得ようものなら、内定を出した会社の間で、争奪バトルが繰り広げられるのです。
そう考えると、前後の時代に比べ、こと就職に関してはかなり恵まれていたのでしょう。ただ、人生は上手くできたもので、入る時に楽した分、その後にとても厳しい現実が待っているのですが…
ともあれ、実際のところ私の属する年代は、「バブル世代」だの「新人類」だのと、いかにも浮ついた人種のように評されていました。
そういえば、「シラケ世代」、「指示待ち世代」なんていう言葉もありましたね。
このように、楽観ムードに支配された世相を反映してか、私自身、ずいぶんとのんびりした就職活動をしていました。
希望先の会社にいる大学の先輩を訪ねるOB訪問も、それほど危機感もなく3社ほどこなした程度でした。その中の1社に、いったんは本気で就職を考えた大手保険会社があったのです。
大甘な受験計画
2007年10月16日
私の大学は、もともと教育学部の規模が大きく、卒業後の進路として教師の道を選ぶ人が大半でした。
我が経済学部においては、教職免許を取得して教師になる人もいましたが、地元の銀行や公務員としてお役所に就職する人が非常に多かったと記憶しています。
4月ともなれば、もうすでに就職活動は活発でしたから、私もあまりのんびりとしてはいられません。
さすがに10社くらいは資料請求のハガキを出し、6社ほど面接を受けました。
業種は、製造業が1社、銀行が1社、証券会社が1社、保険会社が3社と、金融機関中心でした。
不況の今からすると、何て甘い就職活動なんだろうと思われるでしょうが、当時は、いわゆる「売り手市場」という状況で、大学生を多く採用することに会社の威信を賭けているかのような世相でしたので、卒業後の進路については全く悲観していませんでした。
いちおう私が立てた受験計画としては、まず新卒でどこかの会社に就職する。
その後、仕事が終わったら、毎日自宅で3時間程度受験勉強をして、日商簿記検定と税理士の簿記論・財務諸表論を受け、ある程度の実力と資金的めどがついた頃を見計らって、本格的な受験準備を始める、というものでした。
ただ、公認会計士試験は7科目を同時に受けなければならないことから、それがきつくなりそうだと判断した時には、そのまま1科目ずつの受験が可能な税理士試験に方向転換する、という安易なスケジュールだったのです。
しかしながら、当時の私は、「これで資格取得後はバラ色の人生だ!」などと、たいした根拠もなくすっかりその気になっていたのだから、今から思い返すと、何てめでたい奴なのだろう、と恥ずかしくなります。
とにかく独立したい!公認会計士という資格との出会い
2007年10月15日
あれはまだ、世間がバブルで踊っていた昭和63年の春のことでした。
私は、埼玉大学という浦和にある地方大学の4年生になったばかりで、
そろそろ卒業後の進路を考えなければならない時期に来ていたのです。
「俺は〇〇証券に応募しようと思っているんだけど、柴山はどうする?」
こんな話が、友人との間で日常ひんぱんに行われていました。
そんなおり、はじめの頃は、経済学科に所属していたこともあり、
何となく金融関係の仕事に就こうと考えていました。
ただ、いつまでも勤め人のままでいるつもりはなく、
いずれは独立開業できる仕事をしたいと思っていたのです。
そこで最初に候補としたのは、税理士でした。
理由は簡単です。司法試験は合格率が2%ぐらいで、
受かること自体が奇跡のように思えたことがひとつ、
そして、もう少し合格率が高くて、なおかつ多少なりとも自分の専攻と関係のある経済関連の大型資格で知っていたのが税理士資格だけだった、というのがもう一つの理由です。
つまり、はじめは「公認会計士」という職業の存在すら知りませんでした。
今でも忘れませんが、ある日曜日の昼間、神保町にある三省堂書店に行って専門学校のパンフレットをいくつか手にし、近くの喫茶店でコーヒーを飲みがてら、資格の内容を興味深々に検討していました。
そこで初めて、「どうやら税理士資格よりも幅広い国家資格があるようだわい」と、
公認会計士の存在を知るにいたったのです。
別に、業務内容をこと細かく検討したわけではありません。
だいいち、「監査は公認会計士の独占業務である!」などと仰々しく言われたところで、
「カンサって、何それ?」くらいの意識しかなかったのです。
強いて公認会計士試験に挑戦してみよう、と思った決め手を挙げるならば、
それは「公認」という言葉がとてもスマートに見えた、ということと、
「独立後、年収1千万円以上も夢ではない!」というようなキャッチフレーズにとても魅力を感じたからです。案外いいかげんな動機ですみません。
なにはともあれ、簿記の「ボ」の字も知らない私は、大学受験のときでさえ1日3時間以上自習した経験がないくせに、難関資格といわれる公認会計士試験に挑戦することを、あっさりと決めてしまったのです。
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